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那智(なち)は、日本海軍の重巡洋艦。妙高型重巡洋艦の2番艦である〔#昭和16年12月31日現在艦艇類別等級p.2『軍艦|巡洋艦|一等|妙高型|妙高、那智、足柄、羽黒』〕。那智級と表記された事もある〔#軍艦模型制作許可願の件p.1、#20糎砲塔搭載の件p.1『那智級用二十糎砲塔ヲ…』〕〔#日本軍艦集 : 2600年版p.26『(足柄は)妙高と同型。世界に誇る那智級一萬頓重巡の最後に出来上つた艦である。』〕〔#敦海軍会議一件 第五巻/経緯、その他(3)p.2『軍艦建造計畫 補助艦補充計畫(昭和四年完成)(総額?億?千萬圓)巡洋艦 一万噸四隻(那智級) 七千百噸四隻(加古級) 驅逐艦廿一隻 潜水艦廿八隻』〕。命名の由来は和歌山県の那智山に依る〔#寄贈品受領の件p.4『昭和弐年五月十日 和歌山県知事清水徳太郎→海軍大臣岡田啓介殿/目下海軍工廠ニ於テ建造中ニ係ル軍艦那智ハ其ノ艦名ヲ本県下熊野「那智」ノ地名ヲ選択セラレタルハ當ニ本県ノ誇リトスルノミニナラス大ニ光栄トスル所ニシテ県民等シク感謝措ク能ハサル次第ニ在之候(以下略)』〕。艦内神社も熊野那智大社から分祀された。 == 艦歴 == 1924年(大正13年)11月26日、呉海軍工廠にて起工〔#第2233号艦艇建造工程表交換の件p.2〕。当初、進水は1926年(大正15年)10月中旬を予定していた〔#軍艦那智工事予定概括表の件p.10〕。1927年(昭和2年)6月15日、梨本宮守正王列席のもと進水〔#軍艦那智命名式次第書の件p.2、#守正殿下御行勤御予定の件p.8〕。1928年(昭和3年)11月26日竣工〔#軍艦那智工事予定概括変更の件p.19『呉鎮守府司令長官→海軍大臣(三.一一.二六)/那智竣工 今二十六日午前十時三十分授受ヲ了ス。』〕。起工は「妙高」より1ヶ月遅れたが、竣工は8ヶ月早まった事になる〔#ポケット海軍年鑑:日英米仏伊独軍艦集.1937,1940年版p.31〕。佐世保鎮守府所属〔#艦艇特務艦艇籍一覧表p.1〕。 同年12月4日、横浜沖での御大礼特別観艦式に参加する〔#大礼参列艦船並に航空機p.1〕。那智は最新鋭1万トン級巡洋艦として世界に紹介された〔#御親閲当日式場の光景pp.1-2『(前略)第四列には世界最新の航空母艦たる加賀、第一航空戦隊旗艦赤城、同航空母艦鳳翔続いて最新式一万頓級巡洋艦那智其他第五戦隊旗艦衣笠以下巡洋艦八隻ヲ列シ(以下略)』〕。那智の栄誉は続いた。1929年(昭和4年)5月下旬~6月上旬、東京(横須賀)、八丈島、大島、和歌山、大阪、神戸、東京(横須賀)を昭和天皇が行幸する事になり〔#行幸に関する件pp.1-2〕、その御召艦として那智と戦艦長門が指定される〔#行幸海軍艦名及乗員数に関する件(1)pp.1-2〕。当時の那智には高等官27名、判任官159名、兵566名、計752名が乗艦していた〔#行幸海軍艦名及乗員数に関する件(1)p.10〕。5月28日午前10時、横須賀軍港にて昭和天皇が那智に乗艦し、午後6時に八丈島にて戦艦長門に移乗した〔#行幸に関する件p.3〕。以後、6月8日の神戸出港まで那智は御召艦長門の供奉艦として行動を共にした〔#八丈島~大阪行幸関係2(1)pp.15-17〕。 1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖で行われた特別大演習観艦式(御召艦霧島、先導艦足柄、供奉艦妙高、那智、羽黒)に参加〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.242『昭和五年特別大演習式場圖』〕。 1932年(昭和7年)には第一次上海事変で警備に従事する。 日中戦争では1937年(昭和12年)8月20日から24日まで上海上陸作戦に参加した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「那智 (重巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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